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万能性と超国民性の作曲家 モーツァルト

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前回のブログで取り上げた、アインシュタイン著『モーツァルトその人間と作品』の中の、モーツァルトの音楽の万能性と超国民的な作曲家であるという、まさにアンシュタインの見立てが正当で卓越した見解かを文章を追って見てみます。

 モーツァルトは父親である、レ―オポルトにあてて書い手紙に中で、自分は「作曲のほとんどあらゆる種類と様式を」すなわちイタリア風のものも、フランス風のものも、ドイツ風のものも、「受け入れ、模倣することができる」・・・・・しかしこのことは、われわれがここで考えている万能性を裏付けるのではなく、単に彼の超国民性、すなわち、彼がイタリアの作曲家でもなく、ドイツの作曲家でもなく、いわんやフランスの作曲家でもなく、全ての国民的境界と制約とをはるかに超越している、ほかならぬモーツァルトであるという、音楽史における彼の異常な地位を裏づけるにすぎないと言っている、さらにアンシュタインは続ける。
イタリアないしドイツ音楽が彼の音楽的本質を規定するのではなく、彼がイタリア的ないしドイツ的であるのは、外面的な形式のなかにおいてにすぎない、・・・・・彼がイタリアないしドイツ音楽の本質を規定するのである。

 声楽作曲家としてのモーツァルトと器楽作曲家としてのモーツァルトといずれが偉大であったかなどと問いかけることが無益なことであり、さまざまな分野においてそれぞれ完全なものは、比較を許さないからであると述べている。
ここでアンシュタインは、モーツァルトの万能性と、他の偉大な楽匠たちとの比較を始める。
おそらくモーツァルトに最も近いのは、ヘンデルであろう、しかしすぐに疑念が起こる。
ヘンデルのいっさいは統一的な、力強い一つの源泉から、すなわちイタリアの声楽様式、記念碑的アリアのベルカントから流れ出ているのではなかろうかと書き、彼の同時代人バッハは万能であったろうかと問いかける。
なるほどバッハは器楽と声楽の分野においてあらゆるすみずみまで、教会的なものも世俗的なものも、さらに、彼の世俗カンタータをオペラとみなすとすれば、オペラまでも手を付けずにはおかなかった。しかしこれらのいっさいも実際には一本の根から、すなわち器楽的なものから、いっそう厳密にいえば、オルガンの多声音楽から生長しているのであり、この多声音楽がバッハの声楽の主題をも規定しているのであると。
ハイドンとべートーヴェンについては、ハイドンは弦楽四重奏曲とオーケストラの分野で、ベートーヴェンは何と言ってもピアノの分野で、最も自己を語っている。二人とも声楽曲もリートも作曲しているが、その道の大家ではない。
こうしてわれわれは、未完成シンフォニ-と数百曲の完璧なリートの作曲家シューベルトに思い及ぶことになるとかく。
シューベルトはモーツァルト比較しうる唯一の作曲家とも思われる。しかし彼もオペラを書いてはいるものの劇的、舞台的な要素に関する眼識が与えられていなかった。
モーツァルトが声楽と器楽、ミサ曲およびオペラ、四重奏曲およびコンチェルトを思いのままに処理する際の夢遊病者的な確実さと優美さを考慮してみるならば、モーツァルトの万能音楽家としての独自性という現象に対する感嘆はかぎりなく増大するのであると語る。

 モーツァルトとベートーヴェンはともにピアニストとして教育され、作曲家としての楽器はピアノでした。しかしモーツァルトはまもなくピアノから全く自由に考えるようになり、カンタービレ的性格が、まず声楽にとって、ついでまた器楽にとっても、彼の法則となる。
モーツァルトは7歳か8歳で最初の旅行に連れ出され、世界の中に投げ出されたので、あらゆる音楽的影響に身をゆだね、彼が打ち負かされて、天才児が通例なるように、16歳で才能をうしなってしまうことにならなかったのは、驚嘆に値する。彼の個性、彼の抵抗力は、自分に相応しいものだけを自分のものにするに十分なほど強かったのである。
彼はいかなる国民にも所属せず・・・・・あらゆる国民に所属するのである。
彼は普遍的である。彼は国民的な音楽家でもなく、国際的な音楽家でもない。
彼は超国民的なのである。・・・・・このアンシュタインの見解に全く賛同です。
               ブラボー・・・・・モーツァルト
十文字 豊/アルコーブ・U

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by npo-iezukurinokai | 2015-06-06 13:31 | 十文字豊 | Comments(0)
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