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”まちに出た、建築家たち。”ーNPO法人家づくりの会

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みんなの家計画

住宅資金は多くの場合、それまで積み立ててきた手持ち資金と金融機関からの住宅ローンでまかなうことになります。
住宅ローンはその人の年収から貸付金額の限度が決まります。

平成20年の男女およびすべての年齢を合わせた会社員の平均年収は430万円。
この中で、住宅取得の中心とみられる30代後半から40代前半の男性では600万円弱でしょうか。

データは以下のサイトからです。

年収ラボ

この前提にたって、より多くの人が普通に家を取得することを考えるのが
「みんなの家計画」です。

スタートとして、年収の4倍程度で家を取得する事を考えてみます。

年収600万円として4倍で2400万円。
手持ち資金として使える金額が300万円で2700万円。
手持ち資金はもう少し多いかもしれませんが
もちろん、これには土地取得の費用を含めて考えないといけません。

この予算は、新築というよりも中古住宅を買うことが現実的なところかもしれません。

それでも新築、ということであれば
千葉市郊外ならば坪5万円という土地もありますから、100坪買っても500万円。建物にかけられる費用が2200万円になります。でも、都心への通勤は厳しいかもしれません。

通勤圏となるといきなり土地の価格は上がります。探していると格安物件もあるようですがそうした物件との出会いは神頼みに近いですね。

それでも、なんとか通勤出来そうな土地が1500万円で土地が見つかったとして、建築工事に懸けられる費用は1200万円。

1200万円の新築というのは、ローコストを売りにしている大手パワービルダーという選択肢がまずは考えられます。しかし、せっかくの自分の家です、やはりこだわって作りたい人にはストレスのたまる選択肢です。

では、どうしたらいいのか?

これが、私たち建築家に課せられた仮題であり、それを考えてゆくのが「みんなの家計画」です。

私は「みんなの家計画」として
A、「ハーフビルド」での新築
B、中古住宅のフルリフォーム
を考えています。

「ハーフビルド」というのは
まずは、生活するに必要な最小限の器として家を作ることを考えます。
そこから生活を始めて必要なものは必要なときに付け加えてゆく考えです。
これを私は「ハーフビルド」と呼びます。
「ハーフビルド」でこだわりの家を完成させるのではなくスタートさせると考えるのです。
ボーナスや臨時収入で、間仕切り壁や家具を必要なときに必要なだけ作るという考え方です。

一方、中古住宅のリフォームも大きな可能性を秘めています。
最近は「リノベーション」という言葉を使うようですが、センス良く耐震性能など技術的なポイントをおさえた改修工事でしたら、新築ほどの費用はかかりません。
土地付きで1700万円程度の中古物件を1000万円かけてフルリフォームする。
1000万円ほどの予算があれば、よほど大きな家でないかぎり、ほとんど新築と思えるようなリフォームが可能です。

「みんなの家計画」
みなさん、どう思われますか?

今週は「みんなの家計画」について書いてゆきたいと思います。

(アトリエフルカワ一級建築士事務所 古川泰司)
# by npo-iezukurinokai | 2010-05-10 10:39 | アトリエフルカワ | Comments(0)

知識は捨てる

 黄金週間の間付き合っていただき感謝します。実は最後のこれを書こうとしてこれまで書き続けてきました。

 私たちは無条件に機会があれば知識を得ようとします。読書は無条件にいいことのように言われています。百聞は一見に如かずともいい、とにかく知識を得ることに害がないかのように思っています。でも本当にそうでしょうか。確かに知識量の観点からだけではそうかもしれませんが、でもその知識を得た者からすると、その知識が行動を躊躇させることもあります。大学時代等、色々な知識があらゆるものに疑問を投げかけさせ、行動してみてわかることを、頭だけで判断させていたという経験はありませんでしょうか?なんかの障害に直面したとき、行動する者に勢いがあれば乗り越えられるものも、なまじの知識が勢いをそぐことはよくあります。それと行動してみるがゆえに判ることもあります。

 知識を溜めようとすることより、その知識を何のために必要としているのかというその目的の方が重要ではないかと思っていたら、『知識は捨てる』川井かおる著(日経BP社)とい本に遭遇しました。
今日,知識はネットでかなりのことを得ることができます。パソコンも容量が大きくなりどんどん溜められるようになっています。情報は無限にたまっていきます。知らず知らずのうちに不要な情報や知識に囚われ頭と心がいっぱいになり、本来ある己の力を活かせなくなっている、先ずは情報断食だ、というのです。そこには、払拭:自分を振り回し、束縛している心の贅肉を捨てる。受容:ありのままを受け入れる。縁活:今、目の前にあることがらとの縁を活かし、できることからする。の三つの重要性を説いています。

 払拭とは、「やる気のないのは良くない」とか「前向きに行動しなければならない」といった、自分を振り回し、束縛する心の贅肉を捨ててしまうこととあります。捨てれば、心にゆとりが生まれ、ありのままを受け入れられるようになる。そうするとゆとりはさらに広がりその時の縁を活かせるようになるというのです。それを繰り返すことで情報断食の循環が出来上がり、それが大事と説きます。
 のどが渇いていない馬を川に連れて行っても水を飲ませることはできないということわざのように、確かに知識は必要としたときでないと見に付きません。乾いているから水を吸います。また知識をいくら詰め込んでも知恵にはなりません。身に付けるだけの体力や用意のある者に、その知識を必要とする目的と想いがあって始めて、知恵が生まれます。用意のない者には、知識が、むしろ自信を失わせることにもなりかねません。あるいは逆に知識を得ただけで体得したかのような気にさせ、必要な手順を踏むことや成長を妨げる場合もあります。それだけでなく、情報だけで分かったような気がし、批判するだけの評論家をあちこちに拡大再生産させ、無責任な社会を醸成しかねない気がします。
 
 家づくりでも、家は三回建てて見ないと思うような家はできない、といわれるように、生半可な知識がその人にとって適切な道を狂わせることが多々あります。学ぶというか知識の探求はその想像の世界で雄飛でき、それだけで楽しいところもあり自己完結しがちです。しかし知識はいつでも得られる今日、大事なのは行動に結びつかせる何か、あるいは知識を意味あるものさせる何か、ではないかという気がしています。つまり知識を必要とする目的であり、その目的を遂げたいという想いではないと思います。情報が多くなればなるほどその時感じた動機がどんどん先送りさせ、結局、長期に渡る行動に結びつかなくさせてしまいます。行動に結びついてこそ知識は体得され、知識に意味が生じます。その行動を続けさせるモチベーションをいかに持ちえるか、ということの方がはるかに重要な気がします。それがないと個々が社会に関与しなくなり、孤立して自分という存在も確認できなくなる気がします。
 
ということで今週ブログに書いてきたことは、全部すてて(払拭)、今の貴方のまま受け入れ(受容)、今やりたいと思う身近なことから行動しましょう(縁活)。
# by npo-iezukurinokai | 2010-05-08 20:17 | 結(ゆい)設計 | Comments(0)

自分で独自に評価判断できないパートⅡ

評価や判断のことを考えていたら、『あなたはなぜ値札にダマされるのか』-不合理な意思決定にひそむスウエイの法則―オリ・ブラウン/ロム・ブラウン共著(日本放送出版協会)に出会った。日本人のデータではないので最初のテーマから大分離れますが。
そこには、人は合理的なようで不合理な意思決定をよくするとあります。失敗したスペースシャトルチャレンジャーの打ち上げも、事前にその危険性と原因を報告されていたのに回避できなかった、とか、損失を回避しようと思ったとたん、不合理でもリスク回避に偏った判断をしがちであると言っています(損失回避の法則)。また一つのことを続けていると執着心が湧いてきて、他の道を選べなくなる傾向があるとも書かれています(コミットメントの法則)。そのなかで、さもありなんと思われるのは、自分の価値基準(先入観?)に惑わされるという項です。ワシントンの地下鉄で、世界でも指折りのヴァイオリンニストに野球帽をかぶらせ、ジーンズ姿で、ストラデイヴァリュウスで演奏をしてもらったところ、拍手喝采は起こらなかったそうです。つまり人は正装、舞台、演奏者が誰かとか、ヴァイオリンの種類は何かとかいう事前情報で、演奏の質を判断していたとのことです。演奏の本質ではなく、自分の中にある演奏の状態に対する価値基準(の法則)に支配されていたと言うのです。
また、NBAのバスケット選手で、平均的に長くプレーを続けていた者は、ドラフト1順目で選ばれた選手の方が3.3年長くプレーをし続けていたと言う結果があるそうです。理性的に考えれば入団したらドラフト順位は関係ない実力の世界のはずなのに、コーチなど一番良く技量を見ている者ですら、最初のドラフトでついたラベルに目が曇り、評価のバイアスがかかり、素晴らしいプレーもドラフト順位以上に影響を与えないと言う結果があるそうです。学歴や学閥などもなくならないのはこの評価のバイアスの(法則)なせる業でしょうね。その他色々不合理な判断の例が記載されていますが、日本人ならもっと比率が高いかもと思われる例があります。4人の内3人をサクラにして、客観的に誰にも分かる長さを判断させる質問をし、サクラに間違った答えを言わせ最後に被験者に答えさせたら、75%が正解を言わなくなる(グループ力学の法則)そうです。冤罪などでも聞く怖い話です。マスコミやメディアの評価など、似たような話をよく聞きます。もちろん建築など、特に雑誌など、まず編集者のバイアスがかかり、面白がる読者向けの評価で誌面構成をしがちであることから、ユーザーの評価基準とどうしてもずれてしまいがちです。それに惑わされると言うことは大いにあり得ます。(そうならないように、ユーザーの価値観が投影されるよう事例紹介をしているサイトが、
https://www.shi-bo-ri.com/architect/です。)
こと、かようにひとの判断や評価は世界的に当てにならないと言うことです。いかにまッさらな心境で物事に接することの難しさを物語っています。まして辺境の地に育ち、右倣いの判断をしたがる日本人なら判断、評価をすると言うことに自信がもてないのもうなずけます。何かと日々の忙しさに追いかけられ、状況に左右されっぱなしの自分では、自分独自と思っていた判断もなんか自信なくなってきました。せいぜい大きい声の意見に惑わされないように気をつけないと。
# by npo-iezukurinokai | 2010-05-07 11:23 | 結(ゆい)設計 | Comments(0)

だから僕たち日本人は自分独自で評価判断ができないんだ

 日本人は海外の思想や発明技術を取り入れ自分流に修正するのがうまいといわれています。仏教、文字(漢字)、西洋文明や科学技術の数々、外来語等、廻りに満ち溢れています。私たちは他所のいいものを取り入れる能力、というより取り入れようとする力が働くようです。少なくとも自分たちのものが正しくていい、という主張をしようとする意識はなく、どうも正しいもの、いいものは他所にあり、それを学び取り入れるのが良いと思うようです。そのため学会でも、海外の研究論文の翻訳や紹介で著名になった人は多く、建築でも数十年前までは海外のコピーはよくあることで、それで名を馳せた人も数多くいます。

だからといって日本で考えられた独創的なものがないかというとそうでもなく、それらは日本では評価されず、海外で評判になり、逆輸入されるケースが多いようです。桂離宮もタウトに評価をされて日本人もあらためて高く評価をするようになりました。極めつけはISO14001(環境システムマネジメント国際規格)です。本来日本のJISやJAS規格に環境の項目を課し、世界に主張していたら、日本の方がよりいいものができていたのではともいわれています。しかし欧州で規格が制定されたので、海外進出に関連する日本の企業は3年毎に多額の審査料を支払って認証登録しなければならなくなっています。
 
どうして日本人は、身近にすばらしいものが生じても、海外で評価されたもののように評価できないのだろうと不思議に思っていました。読んだ方も多いと思いますがその答えが『日本辺境論』内田樹著(新潮新書)にありました。 勝手な解釈ですが、自分たちが世界の中心という中華思想に対して、日本人には自分たちは辺境の地にあり、少なくとも自分が中心ではなく、あくまで遠い中央から来るものが正しくいいものなのだ、という考え方染み付いてしまったというのです。他人を説得するとか、評価をしてもらうためには虎の衣を借りる必要があったというのです。
 
謙虚といえば謙虚ですし、学ぼうとする向上心は誇っていい気質と思います。確かに日本では自分のものが正しいとか、いいといい張るのは、傲慢だとか、はしたないと思われる傾向があります。しかし、私が気になるのは身近のすばらしいものを評価できず、他所で評価されてはじめて評価しようとする環境です。さびしいものがあります。独創的なものを育て、自分たちが生み出すことが難しい社会のような気がします。
 
辺境の地にあったために、海外からのものを評価する癖がつたということはわかったのですが、だからといってかたくなに身近なものを評価しない傾向は、今ひとつ不思議でした。そしたらもうひとつ別な考え方もあるということを発見しました。それは『日本の難点』宮台真司著(幻冬舎新書)にありました。
 これも自分勝手な解釈ですが、そこには、根本的に、人は人間が創った〈世界〉や仲間が創った〈社会〉を受け入れられないからだとあります。それは内側にいる存在が創った〈世界〉の場合、誰かに都合よく創られた可能性を排除できないからです。また自分と同じような数多くいる(共同体の)成員が作ったとしたらその者の恣意性は排除できずそれに耐えられないからというのです。万人を納得させるような者が創った〈世界〉でなければ耐えられないというのです。天皇制もそのために存続し続けて来たのかも知れません。多数決や民主主義もそれが正しいからというより、納得させるための手続きとしてまだましだから採用されているというのです。

 つまり身近の者を評価するということは、自分とは別の者(決定者や権威者)にすることを許容することになり、容易にはできない、あるいはしたくないからと解釈しました。それが自分のあずかり知らぬところから来たものの評価なら、是非は別にして、ご託宣のように受け入れられるということなのでしょう。それで海外で評価されて、はじめて日本での評価が大きくなるということなのでしょう。
 だから、皆さんも仲間や同僚、とくに奥さん(ご主人)からなかなか評価してもらえなかったのだと理解できました?結設計/藤原昭夫
# by npo-iezukurinokai | 2010-05-06 10:52 | 結(ゆい)設計 | Comments(0)

りんごが教えてくれたこと

 無農薬栽培は他の作物では可能でも、りんごは不可能だ。これはりんごを栽培している人の常識です。自分も生まれた実家が昔作っていたのでよくわかります。ところがそれを可能にした人の本です。『りんごが教えてくれたこと』木村秋則著(日本経済新聞出版社)
 
 10年りんごの無農薬栽培を色々試みて、どうしても虫で葉が落ちてしまい、できなく、破産者にまでなり、山で死んでお詫びしようというところまでいった方の話です。その山で首を吊るロープを木に投げたら勢いあまって飛んで行き、その木を見上げたら、りんごが成っているように見え、その木の見事な枝振りと繁った葉に、農薬を使ってないのにどうしてこれほどの葉をつけるのか、と下を見て、足元のかぐわしい土の匂いに、これが答えだと直感したといいます。
 
木の下の土は雑草が生え放題、伸び放題、地面は足が沈むほどふかふかしていて、土が違うということに気が付いたというのです。それまで木の上のことしか見ておらず、雑草は敵だとばっかり思い込んでいたが、それが逆だったことに気がつたというのです。山では落ち葉や枯れ枝が朽ち、それを微生物が分解して土を作っている。それを応用して、雑草を刈るのをやめ、その草が伸びた頃、りんごの葉が落ちなくなったというのです。夏にもその雑草が土を乾燥から守り、水をやる必要もなかったそうです。
 
 本の紹介するつもりではなかったので詳しくは自分でお読みください。有機野菜の危険性についても書かれています。その中で特に共感させられたのは、生産性追及の農業が農薬や肥料の多投下を促し、効率に血道をあげてきた。その結果減反の必要を生み出した。
りんご1万円の売り上げに、肥料、農薬、機械に7000円かける農業と、5000円の売り上げに1000円以下の経費ですむ自然栽培の農業とどちらがいいのかと、問うています。
 また日本経済を樹木になぞらえ、中央の幹(首都)があって枝(地方)が伸びているのではなく、小枝の葉っぱがでんぷんを作り、幹を支えているのだといいます。
 
 これまで自分も十数年ほど林業(森林)のありように関心があって、設計者の立場から、木材を大量かつ多様に活用しきる工法を開発し続けてきました。これまでの木造とはまったく異なるものです。最初は先ず工法として成り立たせることに苦労し、3,4年かかり、木材(集成材)だけで60分準耐火構造壁を可能とする認定を取得しました。そのつぎにその木材が解体や部分交換でき、容易に間取りを変えられる工法とするためにまた苦労してきました。それもやはり60分の準耐火の認定を取れるところまでこぎつけました。今その工法を誰もが容易に使用できるように、建築センターで構造評定を取れないか苦闘しています。さらに今後、乾燥と接着材にエネルギーをかけざるを得ない今日の木造(や集成材)ではなく、天然乾燥した単なる板と板を木で結合する壁や柱でその工法ができないか四苦八苦しています。そんなこともあり、開発の苦労や森の話などで共感するところが多く、ついこの本のことを取り上げたくなり、ブログで書いてしまいました。結設計/藤原昭夫
# by npo-iezukurinokai | 2010-05-05 20:12 | 結(ゆい)設計 | Comments(0)